神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人【岡田 能正】 / レビュー・感想

 

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本の情報

  • 神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。
  • 岡田 能正 (著)
  • 2018/6/8

 

概要

賀茂神社に生まれ育った著者が神社・神様との向き合い方とその極意を解説した本書。近年の神社との向き合い方に警鐘を鳴らしつつ、古来より日本人は当たり前に知っていた神様とつながる知恵をわかりやすく紹介している。

 

【引用】個人的に気になったポイント

「食べ過ぎは罪となり、寿命を削る」という言葉もあります。縄文時代は一日一食だったといいます。命を保つための適量、それが本能でわかっていたのでしょう。反対に、その適量を忘れて贅沢をすれば、簡単にしっぺ返しがやってくる。食べ過ぎた分だけ、食べられない日がくる。

 

反対に、つらくて、悲しみのどん底にいるようなときでも「これで神様は私に何を学ばせようとしてくださっているのだろう」と思うこと。そちらの方向へ心を開くことができれば、神様からの声も自然と入ってくるはずです。

 

神社に行かなくても神様に守られる人になるには「浄不浄の線引きをすること」「日常的に、心身を清い状態に整えること」「感謝すること」「素直で謙虚であること」といったところでしょうか。

 

日本人には柔軟な宗教観がありました。これもそもそも、神道が宗教ではなかったという要素が大きいのではないかと思います。宗派によって違いはあるものの、お寺の中に神社があり、神社の中にもお寺がある時代が明治まで続きました。

 

「二礼」というと、ただ二回頭を下げるというように受け取られがちですが、本来、二回目の礼は「再拝」。もう一度、頭を下げることで、より深い敬意を表したものです。「二拍手」の意味については伊邪那岐命と伊邪那美命を表す、陰と陽を表す、天と地を表すなど、さまざまな説があります。

 

今のこの世に、日本に生きる私たちは本当に幸せです。 もしも人ではなく、植物や動物でこの世に生を受けたら? この国ではなく、今も戦争をしている国に生まれていたとしたら? 今ではなく、先の大戦の頃やもっと昔に生まれていたとしたら?皆様はどう思いますか? 今、ここに生きていられることをありがたいとは思いませんか?

 

一点の曇りもない幸せよりも、痛みを抱えながらのほうが人はより幸せを感じられるもののようにも思えるのです。

 

日本人が心配性なのは、災害の多い国であることも大きな要因のように思います。

 

本書から得た気づき

人間は問われている存在

本書で「これで神様は私に何を学ばせようとしてくださっているのだろう」とあったが、前に読んだV.E.フランクル著のそれでも人生にイエスと言うであった「人生は私に何を期待しているか」を思い出した。人間は問われている存在と考えることは、自分という小さな殻を破ることであり多くに気付きと学びを得ることができる。人生において困難なことがあるとどうしても内に塞ぎ込む傾向があるが、この考え方常に頭の片隅に置いておきたい。

 

とてつもなく恵まれているということ

最近数多くの本を読むようになって気づいたが、いかに自分が恵まれているかを思い知る。歴史を見れば太古の昔から争いや飢え、病気に苦しみ、人間の自由と権利のために先人の方々が血と涙と汗を流してきたのかを知ることができる。

現代は様々な問題はあるが、明らかに過去と比べて恵まれた状況にある。我々はこの豊かな環境の中で自由に生きることができることをありがたいと思わずして、何を幸せに思うのだろう。

 

実践ポイント

神社に訪れる

神社に行く行かずして本質的なことは謙虚であること、感謝の気持ちをもつなど心身を清い状態に整えることである。そのことを忘れないためにも定期的に神社に訪れ、自分への戒めとする。

具体的に

定期的に神社に訪れ感謝する

 

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